(No.075 兎を追ったその先に ←) 料理は普通に美味しかった。 有名人の彼の為か、オフィスカジュアルの私を気遣ってか、バーナビーが行きつけのレストランでは個室に案内された。 「こういう雰囲気に慣れてますね」 「えぇ、まあ。スポンサーとの会食が多いですから」 会話が続かない。 テーブルマナーの心得はあるものの、こうやって男性と二人で食べに行くのなど数年振りだ、他の理由も伴って、正直緊張している。 「あの・・・」 「あぁ、そうでしたね。今日は、貴方に話があるんでした」 にっこりと笑う彼の笑顔がいつもより、何か、こう違和感を感じる。 「吸血鬼、というものをご存知でしょうか」 「・・・はい」 「僕が、その吸血鬼です」 昨日の光景がフラッシュバックする。 恍惚とした表情を浮かべた女性、露になった首筋に顔を埋める金髪の男。 全部、本当だったのだ。 「じゃあ・・・昨日のアレは・・・」 「僕の、本当の意味での"食事"になります。普段はこういう食事で事足りるのですが、時折、飢えてしまうんです」 「あの、血を吸われた女性は・・・」 「別に殺してませんよ。貧血にならない程度の血を頂いただけです。それに暗示をかけて記憶を消していますので、騒ぎにはなりません」 「暗示・・・ですか?」 「えぇ、やってみましょうか?」 そう言うとバーナビーはウエイターを呼び、視線を合せただ一言『僕の名前を忘れて下さい』と言った。 「僕の名前、わかりますか?」 「勿論ですとも、シュテルンビルトのヒーローの・・・」 ウエイターの口から、続く筈の固有名詞が出てこない。笑顔を保つバーナビーに対して目の前のウエイターは途端に真っ青になった。 他のヒーローは名前を挙げられるのに、彼の名前だけが出てこない。 『今ここで起こった事は忘れてください。たった今、貴方は僕に呼ばれてここに来ました』 バーナビーがもう一度目を合わせてウエイターにそう言うと、今まで青かった顔は普通の色に戻り、何事もなかったかのような顔で、こう言ったのだ。 「お呼びですか、ブルックス様」 平然とデザートリストを頼むバーナビーと、それに応えるウエイター。 お芝居を見ているかのような滑らかさに、は言葉を失った。 「まぁ、こんな感じです」 「・・・どうして」 ようやく考えが言葉になった。 「どうして、私にはその暗示を掛けなったのですか?」 「掛けなかったのではなく、掛からなかったのですよ」 「え?」 「時々いるんですよ、貴方や虎徹さんのように暗示の掛からない方が」 「でも・・・それを私に教えて、どうするつもりですか?」 「勿論口止めですよ」 営業スマイルと言わんばかりの造り物の笑顔を向けられても、正直職場で毎日見ているからときめかない。 「正直貴方の口を封じる術は幾らでもありますが、貴方は仕事に対して真摯だし、何よりとても有能だ」 優秀な同僚を手放す位なら、近くで監視していた方が良いと判断された様だ。あまり嬉しくないが。 「あっ・・・」 だから、本当に些細な偶然が重なっただけなのだ。 がワイングラスを倒して割ったのも、ウエイターが片付けている破片が床へ落ちたのも、その上にバーナビーがナプキンを落とし、が拾ったのも。グラスの破片でが指を切ったのも。 痛みに僅かに顔を顰めた。息を飲み、顔を背けるバーナビー。 「、今、手を・・・」 「指先を少し切っただけよ、気にしないで」 「いえ、そうではなくて・・・」 血が。そう言ったバーナビーの瞳の色が深くなり、纏う空気が一瞬で変わった。の右手を取り、怪我をした人差し指を愛おしそうに眺めるバーナビー。その恍惚とも言える表情にの背筋が凍る。身動き一つ出来ない。 怪我とも呼べないようなちいさな傷を口元に寄せ、軽く歯を立てるた。傷口から一瞬感じた痛みと小さな赤い粒が浮き出る。それがバーナビーの赤い舌が触れると、吸い込まれる様に消えてなくなった。バーナビーはそのまま人差し指に舌を這わせ、唇を当て咥内奥深くまで咥えこみきつく吸い上げる。 「バー・・・ナ、ビー」 の声に我に返ったバーナビーはの手を取ったまま硬直した。 血の香りに抗えない自分の性を今日ほど呪った日は今までも、これからもないだろう。 (→ No.306 剥がされた仮面) |