時刻はもうすぐ深夜三時。池袋とはいえ、通りは静かだった。 街灯だけが寂しく光る中、口元に笑みを湛えた男が一人、目的地へ向かって歩いていた。 「いらっしゃい、情報屋」 男の訪れた店は、カウンターが八席ほどしかない小さなバー。こんな時間の街明かりよりも仄暗い照明の店内で、一人の女性がが彼を出迎えた。 「こんばんは、」 「全く、閉店間際に来ないでくださいっていつも言っているじゃないですか」 「二人きりで話がしたくてね」 「ハイハイ、仕事の話ですね」 、と呼ばれた店の主は、自分の目の前に座った男に何も聞かずシェーカーを取り出し、酒を手際よく注いでいった。やがてシェーカーがシャカシャカとリズム良く音を鳴らす。男は頬杖しながらその光景を眺めていた。 「どうぞ」 「どーも」 男は目の前に出されたカクテルを一口飲み、満足そうに微笑む。淡いマリンブルーのロングカクテルは僅かな照明に照らされて、氷がキラキラと波の様に反射していた。 「どうしてはいつも俺の飲みたい味を出してくれるんだろうねぇ?」 「顔馴染みの好みくらい把握してますから。それにその日の体調とか気分なんて入口から此処まで来る足取りと顔見れば大体解りますよ」 彼女はさも当たり前の事の様に答えるが、そんな簡単な事では無い。 特に今彼女の目の前に座る情報屋を生業としている折原臨也など、自分の思惑が簡単に他人に漏れる様な言動は常日頃から隠しているというのに、の前に座るとそれが全て意味を持たなくなるのだ。 「全く、には適わないよ」 「もう何年もこの場所から客を見ていますからね」 同窓生である為年こそ臨也と同じだが、成人を迎える前から父親と共にカウンターに立っていた。彼女の作り出すここの空気を好み、この店に来る客は存外多い。町の喧騒を扉一つで忘れさせ、BGMひとつかからない静かな空間は、がカウンターに立つことで初めて完成される。 「で、今日は私に誰を売れと言うのですか?」 「嫌だなぁ、人聞きの悪い事言わないでよ」 酒と空間、そして目の前の彼女に酔って身の内に宿す煩いを吐き出す人間は多かった。たとえ些細な戯れ言でも、聞く人間が聞いてしまえば弱味と成り得る。人前では決して言えない様な弱音も、彼女を前にするとぽつりと洩らしてしまう。それはくたびれたサラリーマンでも企業を支える社長でも変わらない。彼女の前では一人の人間であった。 しかしはそれを聞きすぎた。 彼女が誰かに自分の弱味を売るかもしれない、そう思った店の客から危険な目に遭わされた事もあるが、一人の男の手によって助けられた。 それが、折原臨也。 『情報屋』を名乗る彼はを助けた見返りにと、店の顧客情報と彼女との会話の内容を求めた。 客を売ることは出来ない。そう言いは拒んだが、臨也は店に足繁く通った。その度には首を横に振った。 「君に会いに来たんだよ、」 「ご冗談を、そう何度も聞くと笑えもしなくなってきますから」 「笑わないで良いよ、本当の事だから」 のグラスを拭く手が止まる。 いつからか、臨也は見返りを求めなくなった。他の客と顔を会わせない様に閉店間際に訪れるのは変わらなかったが、を助けた時の話を口にしなくなった。ただ、一杯の酒を飲み、途中まで他愛も無い会話を交わす。 「愛してるよ、」 「・・・一回静雄にでも殺されればいいんですよ」 「酷いなぁ、人が本気で愛を告白してるのに」 「貴方の愛は全人類に対してでしょう?」 「シズちゃんは別だよ。そして、君もだ」 初めてこの問答をした時、あまりにも驚いてグラスを落としてしまったので、この会話が始まるとはグラスを安全な場所に避難させる事が癖になっている。この男は何を言い出すか解らない。 臨也は残っていたカクテルを飲み干して椅子から立ち上がる。腕をつかまれ、彼の方へ引かれる。 「好きだよ、」 カウンター越しに唇と唇が触れる瞬間は思わず目を閉じるが、目を開けて尚、整った顔の男は近いまま。臨也の紅がの漆黒と交わり、それから閉じられる。祈るように好きだと呟く声も、いつもと変わらない。 どうせ数秒後には何事も無かったように離れるのだ。 「じゃあ、またね」 最近、いつもこんな感じだ。 カウンターを挟んで約一メートル。超えられない事は無い。 |