臨也が起きる時、隣に寝ていた筈の彼女の姿が無いのはいつもの事だ。 時計を見ると普段の起床よりも大分早い時間だった。このまま二度寝しても良かったのだが、珍しく目覚めが良かったので臨也はベッドから出ることにした。 リビングに続くドアを開けると先に起きていたが自分の方へ振り返る。彼女の少し驚いた顔、そして朝の挨拶。そこまでは簡単に予測できたのだが、彼女の姿を目にした途端、臨也は驚きの余り珍しくドアを開けたまま固まってしまった。 「おはよう、臨也」 「おはよう。で、どうしたのその格好?」 「赤林さんに日本に戻ってるのなら挨拶くらいしに来なさいって場を設けられちゃって・・・」 「だから振袖なんか着てるんだ。へぇ、背が高いけど結構似合うね、綺麗だよ」 大振りの蝶の舞う淡い桜色の振袖は、日本人女性の平均より高い身長のによく似合う。いつもはそのままかひとつに括られている長い髪も綺麗に結い上げられていた。 臨也の言葉に心底驚いたという顔をするに、思わず臨也の眉間に皺が寄る。 「何?」 「まさか臨也に褒められるとは思ってなかったわ、てっきり馬子にも衣装とか言われると思ってたのに」 「が俺の事どう思ってるか解ってたけどそこまで酷くはないよ。俺だって美人な彼女は自慢なの。俺の為じゃなくても着飾ってくれたら嬉しいし、それで外を連れ回して見せびらかせたいとか思うよ?」 思ったことをそのまま口に出すと、珍しく彼女が照れている。臨也から僅かに顔を逸らすが、頬が染まっているのが見えた。 「・・・今日は粟楠のおじ様に会いに行くから出歩くのはまた今度ね」 「それにしてもわざわざ振袖を着なきゃいけないなんて女の人は大変だねぇ。それ、背の高いにぴったりって事は借りたんじゃなくて買ったんでしょ?柄の趣味がいいから浪江辺りと選んだのかな?今度俺にもの服選ばせてよ。の趣味は悪くはないけど良くもないからね。この前もシズちゃんと服屋行ってたし。あの後いろいろあって大変だったんだからね」 「・・・振袖は指定されたから仕方なく着てるのよ」 「振袖指定ってそこまで仰々しい集まりなの?何?まさかお見合いとか?」 「挨拶って言ったじゃない。あ、赤林さんに下まで迎えに来てもらってるから臨也はここまで」 「へぇ、幹部自らお出迎えとはねぇ」 粟楠会はお得意様とはいえ、まさか恋人だからという理由だけで付いて行くわけにはいかない。下まで迎えが来るという事は臨也との関係などとうに知られているのだろう。互いに裏家業の人間なので常に危険とは隣り合わせだ。臨也は自身の持つ情報で身を守り、彼より早く裏の人間となっていたは中学を卒業するまでは粟楠会に守られ、それ以降はハッカーとしての能力を駆使し自らの身を守った。臨也の恋人という認識は良くも悪くも周辺に影響を与えている。今の粟楠会とは外国へ長く行っていた事もあり、良好とは言えないものの関係は続いている。 「、仕事道具は?」 「いつも持ち歩いている七つ道具だけは持ったわ、着物だから動きにくいし何が出来るって訳でもないけどね」 彼女が手に持っているのは小さなバック一つだけ。確かに嵩張るものは持てない。 「じゃあ、お守り」 臨也はの左手を取り甲に口付け、唇にも触れるだけのキスをした。は反射的に目を閉じるが、臨也の唇が離れたと同時に彼の整った顔を間近で見ながら、少し困ったように首をかしげた。 「何?」 「だから、お守りだって」 「そっちもだけど、キスしたら口紅が落ちちゃうじゃない」 「色が好みじゃなかったからね。には少し薄いほうがいい」 そう言っていたずらが成功した子供のように微笑む臨也の瞳にはいつもの様な蔑みは見えず、ただ優しい色だけが見えた。 「行ってらっしゃい」 「・・・行ってきます」 「ああ、一つ言っておきたい事があるんだけど・・・」 玄関まで見送る臨也がふと思い出したようにに声をかけた。が振り向くと彼にしては珍しく真剣な顔をしていたので何か重要な情報でも言い忘れたのだろうか。が再び視線を合わせると、臨也は先程からずっと思っていた事を声に出した。 「、その歳で振袖はどうかと思うよ」 「何なの貴方、その頬・・・」 「煩いよ、波江」 「ああ、にやられたのね」 「・・・」 臨也の左頬には季節はずれの見事な紅葉が咲いていた。あの平和島静雄とやり合ってもひどい怪我を負わない目の前の雇い主に怪我を負わせられる人間など一握りしかいない。子供のように拗ねている所を見ると、波江の推理は間違っていなかったようだ。 最も波江は平手ひとつで本当にこんな跡が残るものなのかと些かズレた視点で感心していた。 マンションの前には、後部座席がスモークガラスになっている黒塗りの高級車。ドアの前で立つ細身の男は表情こそ柔らかいが、派手なスーツを着こなし色眼鏡をかけ、顔には傷跡。そして何より男の纏う雰囲気はどう考えても堅気の人間ではなかった。 「お待たせしました。赤林さん」 「いやぁ、おいちゃんも今来た所だから気にしないでおくれ。それに女の子ってのは支度に時間がかかるものだろう、の嬢ちゃん?」 「そうですね、久しぶりに粟楠のおじ様に会えるのでちょっとおめかししちゃいました」 着なれていない筈の着物だという事を微塵も感じさせずに歩くの手を取り、運転手の開けた後部座席に座らせる。赤林もまた反対側から後部座席に乗り込む。最後に運転手が乗り込み、静かに車を発進させた。 「赤林さんに聞きたいことがあるんですけど、よろしいでしょうか」 「おいちゃんの話せる範囲の事なら何でも」 前部座席と後部座席はガラスで区切られていたので、運転手を気にせず二人きりで会話ができる様になっている。は赤林の方を見ず、正面を向いたまま世間話をするよう会話を始めた。 「園原堂の事がお聞きしたいんです。五年前の切り裂き魔の事件で生き残った一人娘の身の回りの世話をしたのが赤林さんだと伺ったもので」 「の嬢ちゃん。彼女は、杏里ちゃんはこっち側の人間じゃあない。おいちゃんも一年近く会っていないんだよ。アンタがそんな事するたぁは思わないがぁ、彼女をこっち側に連れてこないで欲しいんだけどねぇ」 「解ってます。ただ、一つだけ気になる事がありまして、それを確認したいんです。勿論赤林さんがご存知ならそれで済むのですが、聞くには少し時間が立ち過ぎました」 まるで世間話をするように二人は血なまぐさい話を始める。それは本部のあるオフィスビルに着くまで続いた。 は内心、冷や汗を掻いていた。 迎えに来た赤林に連れられ粟楠会に赴き、を知る幹部達と会長である粟楠道元への挨拶も恙なく終えたまでは良かった。挨拶を終え早々に場から立ち去ろうとするを粟楠道元が引き止める。仕事の話だろうか、今は簡単な開錠以外の依頼の選別は全て臨也に任せてはいるが、外国へ行く前は主に自ら選んだ仕事と粟楠会を通された仕事を引き受けていた。臨也を通したくない依頼でもあるのだろうかとその場に留まり話を聞くが、話が進むにつれ、流石のも思わず顔を引き攣らせてしまった。 まさか本当に見合い話が待っていたとは。 「ほら、ちゃんも年頃だろう?勿論お節介だってのは解ってるつもりだ。だがウチの若いのだってそれなりの顔で骨のある奴もいる。どうだい、一度席を設けてみねぇか?『あの男』よりイイ男が転がってるかもしれねぇし」 「申し訳ありませんが、まだ、彼との『契約』を続けている身ですので」 は臨也にキスされると同時に手に握らされたもう一つの『お守り』を懐から取り出す。道元の後ろで会話を聞いていた青崎がを拘束しようとしたが、それより早くはそれを目の前のテーブルに突き立てた。 「私の腕をご存知なら、この意味、お解かりでしょう?」 の右手で鈍く光るのは、『情報屋』がコートと共に愛用しているバタフライナイフ。それを自身の左小指のすぐ脇に付きたてた。 『開錠屋』とは文字通り錠を開ける者。それを成し遂げるのはの頭脳と繊細な指。どちらが欠けても彼女にとって命取りであり、彼女に依頼してきた人間にもまた貴重な人材の喪失となる。ここまで彼女を育ててきた粟楠会にとって何の利益にもならない。 今まで築き上げてきた自らの価値を投げ出しても、彼の傍にいたいという事か。 「まさかそこまで入れ込んでるとは思わなかったな」 「私は、私の目的の為に居場所を決めました。お世話になった粟楠のおじ様には申し訳ありませんが、あの場所を動く気はありません」 ああでも、おじ様直々のお仕事の依頼でしたら喜んで引き受けますわ、と付け足し、粟楠会の本部であるオフィスビルを後にした。 「へぇ・・・思ってた以上にに大事にされてるんだなぁ、俺」 折原臨也は情報屋としての仕事を全て助手である波江に任せ、が此処を出てから、つまり赤林との車内の会話を始め、彼女とその周辺の会話を一言も漏らさずに聞いていた。 振袖に盗聴器が落とされた事を知っていて尚、がそれを壊しも捨てもせず所持する事は珍しかった。が気付いていないという考えは端から無い。昔から彼女は盗聴器に対して異常なまでに聡かった。臨也も職業上気をつけてはいるものの、彼女が同棲するようになってからは仕掛けられてから発見までの時間が大幅に短縮された。 が帰宅した途端、彼女や臨也の留守中にマンションに仕掛けられた盗聴器を大掛かりな捜索もせず発見器も使わずにどんどん発見し破壊していく姿を初めて目にした時など、彼女が仕掛けた犯人ではないかと思わず疑ってしまう程だった。 そろそろ彼女を迎えに行こうか。が盗聴器を壊さなかった本当の理由なんて、臨也に丁度良いタイミングで迎えに来いと暗に伝える為だろう。 「変な所で意地っ張りなんだよなぁ、は。素直に迎えに来てって言えばいいのに」 迎えに行った後はあの姿の彼女と共に池袋を歩くのも悪くない。 仕事を続ける波江に更に仕事を課し、臨也はコートを羽織り文句を言いながらも仕事を続ける波江の冷たい視線を受け流し、マンションを出た。 |