傘を差さず濡れて歩こうと覚悟してたのに











以前からお得意様だった池袋に本社を持つ不動産会社の社長から受けていた仕事を終え、がビルから外へ出ると雨が降っていた。結構な大降りだったが、彼女は傘を持っていなかった。
はコンビニなどで売っているビニール傘が嫌いだった。かといって家に気にいった傘があるので、他の普通の傘を買おうと思えない。季節は夏直前、帰って直ぐに着替えれば風邪を引く事も無いだろう。そう思いがビルから一歩踏み出すと同時に、頭上に傘がす、と差し出された。傘の持ち主を見ると、自分より遥かに背の高い、バーテン服を着た金髪の男だった。

「静雄」
先輩、いま傘も無いのにこの雨の中、歩きだそうとしましたね」
「・・・」
「歩きだそうとしましたね?」

無言の圧力。はぐらかす事も出来るのだが、いまの状況は完全にに不利だ。別に隠す程の事でも無いので正直に答えることにした。

「仕事が終わってもう今日は帰るだけだし、今日は暖かいから問題無いと思ったのだけど」
「雨に濡れたら寒いっすよ。女性が身体を冷やしちゃ駄目です。トムさん、俺ちょっと駅まで先輩送ってきます」

「おう、行ってこい」
「私は大丈夫よ、静雄。仕事の方が大事でしょ?」
「トムさんも了承してくれましたし、駅まで位送らせてください」
「でも・・・」

静雄の上司で中学の同窓でもある田中トムの方を見ればこちらへ手を振って既に見送る体勢だった。

「じゃあ、お言葉に甘えてお借りします」
「じゃあな、

静雄が持つ傘はそこらに売っているようなビニール傘で、いつも物を壊してしまうからちょうど良いのだと、以前聞いた事があった。いつも傘をさすと暗くなりがちな視界が、今日は明るい。

「すみません」
「え?」
先輩、ビニール傘あまり好きじゃなかったっすよね」

が静雄の表情を見ようと顔を上にあげると、視線に気付いたのか、直ぐに目が合った。

「気にしないで、自分で持つのが苦手なだけだから」
「そうっすか」

五年程ブランクはあるものの、中、高と面識のある二人なので、互いの好みなども多少なりとも知っていた。それでも静雄が自分の傘の好みを覚えていてくれたのには驚いた。

「ありがとう、静雄」

嬉しい、と小さく呟くと、いえ、と静雄が照れたようにそっぽを向いた。
こんな些細な事でさえ、覚えていてくれる優しい後輩に、何も出来ない自分がとても無力に思える。だからせめて彼の前では優しい人間であろうと誓った。たとえ、彼が私の愛せない人間という種であろうとも。












静雄に池袋の駅まで送って貰ったが、新宿の駅から臨也のマンションまでは流石に濡れて帰る事になるだろう。雨は先程より大分小振りになっていた。濡れる覚悟を決め、がマンションから一番近い駅の出口から一歩踏み出そうとした矢先に呼ばれた自分の名。いつの間にか自分の目の前にいたのは見慣れたファーの付いた黒いコートを羽織り、見覚えのある傘を差す男。

「臨也、どうして此処に?」
「さあ?偶然じゃない?」

全く、今日は驚かされてばかりだ。
まさか臨也が雨の中、いつ戻るか解らない自分を傘を持って迎えに来てくれるとは思ってもなかった。偶然と言っていたが、今日、彼に外出の予定など無かった筈だ。もし自分がタクシーでマンションの前まで行っていたら一体どうするつもりだったのだろう。

「あれ、傘持ってないのに濡れてないんだね。誰かと相合傘で駅まで歩いて来たの?相手は?まさかシズちゃん?シズちゃんに優しいからねぇ。通りでここまで傘なしで来れる訳だよねぇ」

ああ、何て事は無い。臨也は知っていたのだ。私が傘を買わず、タクシーにも乗らず、此処まで来る事を知っていたからこそ、彼はわざわざ雨の中迎えに来てくれたのだ。

「どうする?。傘に入りたい?」

簡単には入れないよと言わんばかりに投げ掛けられた言葉が、臨也が静雄に嫉妬している事を物語っていた。ここで無闇に意地を張る理由も無いは、素直に強請る。

「入れて貰ってもいい?」
「どうぞ、のこの傘は無駄に大きいから二人でも濡れないしね」

臨也の持つ傘の方が大きいのに、言った事が無いのに今自分が一番気にいっている傘を差して迎えに来てくれる。それなりに大きいとはいえ、わざわざ女物の傘を差す臨也が急に可愛らしく思えた。










マンションの前まで辿り着く頃には雨もすっかり止み、部屋まで戻ると臨也が二人分の紅茶を入れてくれた。はカップを貰い受け、窓際に立ち雨上がりの空にかかる虹を眺める。臨也は仕事を再開したようだ。後ろからはパソコンをキーボードを叩く音が聞こえる。虹が消えるまで外を眺めていたが、不意に臨也が口を開いた。

「虹の向こうに幸せがあるんだっけ?」
オーバーザレインボウ?ああ、オズの魔法使いね。虹なんて超えなくても幸せなんて何処にでもあるわ」
「へぇ、例えば?」
「雨なのに、わざわざ臨也がお気に入りの傘を持って駅まで迎えに来てくれた事かしら」
「ふぅん。何かの幸せって結構ささやかだね」
「あら、結構嬉しかったのよ?」

背後から椅子を引く音。しかし臨也は立ち上がる訳でもなく、ただの背に椅子の背凭れをそっと付ける。
背中合わせの会話は、顔が見えなくていい。普段なら恥ずかしくて口に出せない台詞も、顔を合わせなければ言える言葉もある。

「ありがとう、臨也」
「どういたしまして」